サイゴン・タンゴ・カフェ(中山可穂)

サイゴン・タンゴ・カフェ

サイゴン・タンゴ・カフェ

『ケッヘル』以来ですか。短編集となるともうどれだけ久しぶりなのかわからないくらい。それにしても前作の『ケッヘル』がそれまでの作風を突き破るようなパワーを持った作品だっただけに、さて久々の短編はどんなもんかと期待しながらページを開く。
そしてそこには、タンゴ、タンゴ、タンゴ。舞台はそれぞれに東京、ブエノスアイレスサイゴンと散らばっているのに、ひたすらタンゴ。思えばこの人の作品には、情熱的でどこか物悲しさのあるタンゴがよく似合う。たぶんモーツァルトよりずっと。タンゴのCDを持っている人はそれを聴きながら読めば、もっと気分が出ることだろう。
ブエノスアイレスのミロンガで唇さえ合わせたことのない恋しい人と踊るタンゴ、メコン河に向かって一心不乱にバンドネオンでタンゴを弾く女とそれに合わせて踊りはじめるカップル、スコールが始まるとともに昔話を始めたハノイのタンゴカフェの女主人。この人の文章は見たこともない美しい風景のイメージを喚起させる力がある。
この短編集は、過去に受けたひどい傷を抱えながらも生きる女たちの物語。自分の人生を破壊してしまったほどの過去を捨てることはもちろん出来なくて、そしてそれはいつしか肉体の一部のようになって共に生きる。だから同じ女としてただ憧れてしまうほどに、この主人公たちは格好いい。それこそそんな傷を知らないからこその傲慢な憧れだとわかっていてもやっぱり格好いいのだよ、思い切って香典盗んでしまうのも、息子のために拙いバンドネオンを必死で弾くその後ろ姿も、もと小説家の顔に刻まれたしわも。
やっぱり、待つ価値のある作家です中山可穂