犬身(松浦理英子)

犬身

犬身

『裏ヴァージョン』を読んで衝撃、にも近い感じで大ファンになってしまったのでさっそくの最新刊に手を伸ばしてみる。


犬好きというレベルではなく、自分は間違って人間に生まれてしまったのであって本当は犬なのではないか、自称『ドッグセクシュアル』の房子は、自らの理想とする飼い主・梓と出会い、ときを同じくして知り合ったバーのマスター・朱尾に甘美な契約を申し込まれる。その契約とは、魂と引き換えに梓の飼い犬として生まれかわることだった………。


なんて突拍子もない展開、ただのファンタジー? ……まぁファンタジーはファンタジーだろうけど、その言葉の持つ甘さとは正反対の嫌らしさがたっぷり詰まっているから面白い。
まずそうしなければ話は進まないのだけど、これは人間時代の記憶もちゃんとあったうえで犬となった房子ことフサ視点の物語なわけで。だから読者としても覗き見をしているようなちょっと下世話な好奇心でぐいぐい引き寄せられる。だって人間時代に多少の親交があった人の飼い犬になるってことは、その人の生活を知るってことで、しかも向こうは当たり前だけどこっち(というか主人公)を犬だと思ってるから何を隠すわけでもなく。これってやっぱり恋愛感情じゃ耐えられない。人間なら恋人同士でも見せないようなプライヴェートな部分を勝手に見るいたたまれなさ。
だけど心が通じるという幸福感においてはどうか。正直、わからない。人間同士だって、心が通じると思うのはただの錯覚に近いものであると思うし。だったら心から相手を愛しいと思う飼い犬と飼い主の関係から生まれるものは、人間同士から得られるそれよりずっと、幸福なのかもしれない。
そしてこの物語においてフサと梓の幸せな時間を引き立たせるのが、徐々に明かされる梓の過酷な家族関係だ。それゆえにまともな人間関係を築けない梓と、それをすべて知りながら彼女に寄り添うフサ。一人と一匹の濃密で穏やかな時間。
相手を意図して傷つけようとしない、傷つけられない。フサと梓の関係性を擬人化するなら足りないのはそれだ。そしてそれを「足りない」を思うのは相手が人間の場合だけで、だから梓もフサはそれを「足りない」とは思わない。
だからすべてを知ってなお梓を愛するフサは、まさに「献身」。そういう、愛のかたち。これって人間同士でもあり得るのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなってくる。会話やセックスがなくても、お互いを必要としていて側にいることができて。ぶつかり合う激しさはなくて、ただまどろむような幸せな時間。それでも足りないと思うのも、それで満たされるのも、どちらもあり得る気がする。


家族でもなく、友情でもなく、セックスも介在しない、だけど深い愛。この人の作品を読むと、「愛」って何だろう?とベタな歌謡曲のワンフレーズみたいな、でもそんな真剣に突き詰めて考えるでもない謎に向き合わされる。「求め合う」ことはそれだけで成立はしないのか。セックスすればそれは成立するのか、いやそれは違うだろう。結局はただの幻想? どんな感情にも当てはまる言葉だし、どんな関係を形容するにも完璧ではない。言い換えるなら、自分以外の誰かと繋がりたいという感情。
『裏ヴァージョン』もこの作品も、その痛烈なまでの、だけど当たり前の感情が、異端な関係を軸にすることによって際立って深く描かれている。だから読めば、じゃあ自分の中にある感情は一体何だと立ち止まってしまう。
中身を探られる、もしくは探らされてしまう。そういう小説があるから小説読みはやめられない。