いっぱしの女 (ちくま文庫)(氷室冴子)

いっぱしの女 (ちくま文庫)

いっぱしの女 (ちくま文庫)

氷室冴子のコラムを読むのは初めてだったのだけど、これがまあ面白くて一気読みしてしまった。


どれもこれも面白かったのだけど、個人的にもタイムリーな話題でうーむと考えさせられたのが「詠嘆なんか大嫌い」という女友達との再会についてのコラムだ。
筆者が楽しみにしていた、大好きな年上の女友達との再会。しかし彼女の口からとめどなく流れ落ちるのは、夫と仕事と子供についての、詠嘆。

 久しぶりに会った私たちの再会には、おたがいの幸福な記憶や、いつか実現するかもしれない楽しい旅行の予定や、バカ話やお酒や、なつかしのGSナンバーを聞かせる大人のための素敵なクラブや、そこでの男の品定めやー
 ばかばかしくくだらない、でも楽しい、少なくとも楽しくしようとふたりで努力する限られた時間、それが記憶に残って、また何年も私たちを幸福にするためのなにかがあるはずではなかったの、と。
 あなたが夫にもいえずに胸底にためていた詠嘆を聞くためにだけ、私が今ここにいるのなら、あなたに共感する他のどんな役割も求められていないのなら、私はとても淋しい、と。

また別の女友達との再会。彼女もまた一晩中、夫とその親族の話に終始した。帰宅後彼女から茨城のり子さんの詩集が送られてくる。

「このなかの<花ゲリラ>という詩を読むと、いつも、あなたを思い出します」
 と書かれてあって、その詩を読んで私は泣いたけれども、それでも私の淋しさは消えなかった。この詩はそんな風に読まれるために書かれたのではない、詠嘆のあとに読まれる詩ではなく、詠嘆しないための意思の向こうに読まれるはずの詩なのに、と。

そうなんだよね…。
かなり前に読んだ何か(小説か漫画かも覚えてないw)で、毎日のように会って話していた女友達の顔がある日突然、自分の吐瀉物を溜め込んだゴミ箱に見え、それから彼女と距離を置くようになった、というエピソードも印象に残ってる。
言葉は残る。書いた言葉も話した言葉も。だからこそ大事にしなきゃいけないのだと再認識。
ちなみにとりあげられていた詩をググって読んでみたのだけど(こういうときにググって読んでしまうことについては後ろめたさを感じている)とても素敵な詩だった。他の作品もぜひ読んでみたい(ググらずに)。


「一番遠い他人について」も同じく言葉と共感について考えさせられた。
大学時代の、少し疎遠になりかけた親友の「あなたは〇〇〜なタイプだから」という押しつけがましい言葉への反発から関係が行き詰まっていたちょうどその頃のエピソード。

「どうして女性は簡単に、“わかる”という言葉を使うんだろう。“わかる”という共感に、よりかかりすぎてしまうんだろう。かるがるしく“わかる”というのが、どんなに傲慢なことかわかってない。少なくとも、自分はほんとうに“わかっている”のかと自問する姿勢がなければ」
 という教授の<文学研究の基本的な姿勢><卒論を書く心得>についてのお話が、教授の意図とはまるで違う領域の、人間関係のあやうさの秘密のように思えたのだった。

この話は「女は〜」という安易なくくりで語ることへの自戒にも繋がっていき、言及はされてないがその教授の言葉へも見事なブーメランとなっている。


高級ホテルを予約してブランドもののアクセサリーをプレゼントに…というクリスマスイブの光景(時代!)へのシニカルな視点から始まる「ありふれた日の夜と昼について」もいい。タイトルの言葉に帰結するラストの下りに胸がぎゅっとなって、ああさすがだなーと。


他にもカラーパープルの話とか、漫画評論についての話とか、良識過ぎるご両親の話とか、そのまま漫画化してほしいようなツアー旅行の話とか、ちっとも色あせない氷室冴子の言葉と感覚がぎゅっと詰まってて目の覚めるような一冊だった。また忘れたころに読み返したい。