1000の小説とバックベアード(佐藤友哉)

1000の小説とバックベアード

1000の小説とバックベアード

この人の作品読むのは『子供たち怒る怒る怒る』以来の二冊目。『子供たち〜』を読んだ時は、ちょっとビミョー判定だったため、他の作品までは手を伸ばさなかったんだよね。でもこないだの「王様のブランチ」で特集されてたのを見て興味がわいたので、改めてこの三島賞受賞作に挑戦。さて……


これが期待以上に、面白かった!

小説ってなんだろう?
小説を読むことに、はたして意味はあるんだろうか?
小説は、人を幸せにしてるんだろうか?


特定の個人に向けて物語を書く「片説家」、不特定多数の読者に向けて物語を書く「小説家」、才能はあるのに小説をバカにする「やみ」……三つの存在がうごめく世界で、27歳の誕生日に「片説家」をクビになった僕。そしてなぜか小説以外の文字を打つことができなくなった僕のまえに、配川ゆかりという編集者が現れて執筆を依頼してきた。またゆかりの妹は行方不明になり、『日本文学』と暮らしているらしい……。


なんだかわけがわからない世界なのだけど、ぐいぐいと引っ張り込まれて一気読みしてしまった。なんだろう、この小説のなかにあるエネルギー。怒りと混沌に満ちたパワーが台風のように渦巻いてる。小説とは、なんなんだ。その問いにぶつかり、怒り闘う「僕」。

『いい本でした。おもしろかったです。感動したし、感心しました。で、それが一体なんだというの? だからどうしたっていうの? いい小説を読んだ。それで何がどうなるっていうの?』


これだけ娯楽が溢れた今、「小説」は過去の威厳だけを振りかざし、ほとんどの人に相手にされてないようにさえ思える。もしくは単に時代に支えられたメッキがはがれ落ちて、ただの娯楽産物のひとつでしかなかったことを露呈しているようでもある。
でもこの小説は、そんな懸念に「No」を突きつけている。
小説の神様バックベアード>が定義する「1000の小説」に値するものであれば、それは突出した価値を持つものだと、信じようとしている。


「小説」というより「文学」という足場は絶対なものと信じて疑わない人たちには、決して理解されない小説だろうなとも思う。だけどその「足場」は、「本質」ではなく、文化に対応した安易な土台であるように思うのだ。そしてその状況を認識したうえで、「小説」のなかに「本質」があることを証明しようとする、この作品への好感度は高い。


小説が好きな人は読み手としていろんなことを感じながら、しかもひとつの小説として楽しめる作品。オススメです。