下山事件(シモヤマ・ケース) (新潮文庫)(森達也)

下山事件(シモヤマ・ケース) (新潮文庫)

下山事件(シモヤマ・ケース) (新潮文庫)

単行本のときに買いそびれてたものがいつのまにやら文庫になっていたので、迷わず購入。

タイトルどおり、戦後最大のミステリーといわれる「下山事件」に迫ったノンフィクション……と説明するのが一番簡単。だけどちょっと違うんだよね。もちろん事件の真相にはかなり近づいていて、そういう視点で読んでもドキドキしてもちろん面白いのだけども、「僕の本の価値は(もしもあるならば)、事件の真相にはない」と著者本人があとがきで断言しているように、この本の最大の魅力は下山ケースの真相ではない。
下山ケース前後に顕著に見られた、日本社会の危うさ。それが現在もまだ変わっていないことを、著者は鋭く指摘する。隠された目的のため国民へ不安材料をちらつかせる政治家、それを煽ることしかしないマスコミ、まんまとのせられる国民。下山事件はさまざまな組織の思惑が絡み合った複雑な事件だったが、結果として当時の権力者とアメリカの思うがままに、国民は踊らされた。そしてそのレールは現在へと続いている。

誰もが必死だった。誰もが懸命だった。その帰結として今がある。初代国鉄総裁の死を背景に、この国の繁栄があり、蹉跌があり、今の僕がいて、今のあなたがいる。

オウム信者とそれを取り巻く社会環境、どちらでもない立ち位置から見ることで、日本社会のいびつさを浮き彫りにしたドキュメンタリー『A』『A2』の監督である著者は、この下山ケースを通して再びそのいびつさに直面する。

ただ、日本という国は、共同体への帰属意識が生来的に強過ぎるため、一方向への傾斜が全体の暴走に加速する傾向は、確かに突出していると感じている。だからこそメディアの果たす役割と責任は大きい。その自覚や葛藤をメディアが失ったとき、民意のスタンピード現象が起き、国家という共同体の暴走がいつのまにか始まっている。スタンピードを起こした牛の群れに、きっかけは最早わからない。ただ突進するだけだ。川に落ちるか崖にぶつかるまで。過去もそして現在も、日本はこの同じメカニズムをくりかえしている。

終戦直後という異常な状況にあったことも有利に働いて、下山ケースをはじめとするいくつかの事件を「アカ」による犯行であることを匂わせ、共産主義への嫌悪感を国民に押し付けることに見事成功する。「何をするかわかったものじゃない」から、そのすべてを拒否する。それは『A』『A2』から見た現代社会と何ら変わりはない。

要するにこの一世紀、日本は何も変わっていない。国家という組織共同体は際限なく同じ過ちをくりかえす。懲りたとしても常に一過性だ。だからこそ日本は、過去を何度も何度も噛み締めねばならない。半世紀が過ぎた事件をもう一度掘り起こさねばならない理由はきっとここにある。その本質がこの事件に内在しているという直感が働いた瞬間に、皮肉なことに下山病は発症する。

「噛み締めなければならない」んだけどねぇ。今またスタンピード起こしかけてる気がする。国民投票法案なんて恐ろしいもん通っちゃってるし。別名「操りやすくて愚かな国民に責任を押し付ける法」だろう。



なにはともあれ、下山事件になんら興味のないわたしが、ぐいぐい引き込まれて一気読みの面白さでした。前後して出版され、因縁もある「葬られた夏」「下山事件 最後の証言」も機会があれば読んでみたい。
最後に佐野眞一氏による文庫解説から、この作品の特性を的確に表現した一節をーー

本書には、その過程が、いわば本編と、そのメイキングビデオを同時撮影するように描かれている。というより、著者の目線は描くべき対象よりもしばしば自分を映しこんだ制作過程それ自体に向けられている。ドキュメンタリー映像作家の性ともいえるこうしたスタンスは、楽屋落ちといわれかねない危険性を孕む。その一方で、プライヴェートフィルムの制作現場にいきなり立たされるような異様な迫力とリアリティをこの作品に与えることになった。それは、真相の断片をつかんで驚喜する幼さや、謀略史観の高みからあたりを冷笑するような愚かさから、本書を免れされる距離感ともなっている。