ケッヘル〈上〉 ケッヘル〈下〉(中山可穂)★★★★★

ケッヘル〈上〉

ケッヘル〈上〉

ケッヘル〈下〉

ケッヘル〈下〉

かなり久しぶりの中山可穂。どのくらい久しぶりかと言えば、前に出た短編集の『弱法師』から2年3ヶ月ぶりだし、長編に至っては『ジゴロ』以来の3年3ヶ月ぶりなのだ。その期間に、中山可穂に何が起こったのか? そんなことは知る由もないけど、ただこの小説を読んで思うことはひとつだ。
間違いなく、これは中山可穂の新境地です。
ホントに。

放浪に倦んだ伽椰は、海峡の町で出会った男に職を斡旋される。アマデウス旅行社の奇妙なツアー。それはおそるべき復讐劇の始まりだった

                                                                      • -

モーツァルトの曲の全てには、作曲順にケッヘル番号というナンバーが振られているのはご存知でしょうか? この1500枚を超える長編小説は2年の歳月をかけた著者の挑戦作であり、「もうひとつの処女作」と思い定めた渾身の作品です。モーツァルトの音楽に取り憑かれた音楽家の血をひく数奇な運命の少年。過去の亡霊から逃げつづける女・伽椰。濡れたけものの気配を放つ美貌のピアニスト――モーツァルティアンのみを顧客とする奇妙な旅行社のツアーが絢爛たる復讐の物語へと誘います。(OY)〜文芸春秋HPより

壮絶な恋から逃げるようにして海外を放浪する孤独な女・伽椰。旅先で偶然出会った伽椰に日本での住む場所と仕事を与える謎の紳士・遠松。二人の主人公が出会ったとき、恐ろしい復讐劇が幕を開ける。モーツァルトに魂を捧げた女たらしの天才指揮者、狂ったように息子に執着するもとピアニスト、望むものすべてを手中に収めようとする若き政治家、男性恐怖症なヴィオラ弾きの美少女……、現在と過去、様々な人生が絡み合い交錯する。この復讐劇の首謀者は……!?


結構な分量なのに一気読みですよ。物語は現在の伽椰のまわりで起こる不可解な事件と、遠松の過去の物語が並行して描かれるのだが、どちらもサスペンスフルで読み応えたっぷり。ラストに向かってどんどん二つの物語が近づいてくるあたりなんて、ページをめくる手が止まりません。
帯に書かれた「著者新境地にして最高傑作」という言葉は間違ってない。個人的には『感情教育』と同じくらい衝撃を受けた。この物語は濃い。でもそれはこれまでの中山作品の「濃さ」とはちょっと違うのだ。


中山可穂は自分自身の受けた傷をナイフでえぐりながら、そのエキセントリックさをきちんとコントロールされた静謐な文章で描くことが出来る希有な作家だ。でも逆に言えばそれしか書けない作家だった気がする。これまでの作品はほとんどがビアンである主人公の壮絶な恋愛模様が主で、でも読者視点として悪く言えばワンパターンに写るときもあった。ビアンの恋愛小説だからワンパターン、というわけじゃなくて、それらの小説の核になっているのが著者自身の経験した恋愛だっただから、つまり主人公もその恋の相手となる女性もいつも同じタイプだったからじゃないかと思う。何より『感情教育』→『白い薔薇の淵まで』→『マラケシュ心中』の流れは3部作と言っていいほどで、この3作はそれぞれ素晴らしいのだけど、でも著者にとってのひとつの大恋愛を軸に描いた作品だったと思う。だからこの人の作品がいくら好きでもかなりお腹いっぱいになって、そのあと『ジゴロ』を読んだあとは、今後しばらくはこの人の作品は読まなくてもいいかも知れない、とまで思った。ま、わたしがどう思ったにせよ、それからはこの人の(長編の)新刊は出なかったのだけど。


それから3年、一瞬迷いながらも、買って良かった。ちゃんとやってくれましたよ。
本作も主人公のひとりである伽椰はビアンだし、愛の物語だけど、これまでの中山作品とは嬉しい意味で異なる。運命的でドラマチックな展開や、静謐で美しい描写は変わらない。でもこれは恋愛小説じゃない。少なくともこれまでのような著者を彷彿とさせる主人公の恋愛が主軸ではない。この『ケッヘル』は、家族の物語で、青春の物語で、愛の物語で、かつモーツァルトに彩られたミステリアスかつサスペンスフルな物語。そして中山可穂らしい「濃さ」が詰まった物語だった。
プラス、いいライブ感があります。これまでもそうだったけど、この人は小説家として小手先に頼らなくて、今の自分の中にあるものを全部絞り出そうとする人だから。期待するのが悪いくらい。でも、だからこそこれからまたいい小説を出してくれるのではないかと思う。そして出すものがなくなっても小手先に頼らず、また何かを得るまで次の小説を発表しないのではないかと、勝手に期待したい。


本当に素晴らしい作品でした。中山可穂の作品を一度でも好きになった人はぜひぜひ! だけど読んだことない人にも勧めたい。逆に中山可穂作品が肌に合わないって人にまで勧めたいです。ミステリやサスペンスとしても読み応え十分ですよ。ついでと言っては何ですが、この世界観に酔っていただければ……。