アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)(小川洋子)★★★★

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)

アンネの日記』を読んで作家になりたいと思ったという著者の、アンネ・フランクの人生をめぐる旅の記録。
アンネの日記』はわたしも小学生くらいで読んだけど、子供向けに編集されていたものだった気がする。隠し部屋を描いた挿絵がなんとなく記憶に残ってるもの。思ったほど暗い話ではなかったと記憶している。状況はとても恐ろしいのだが、日記の書き手であるアンネ自身の性格ゆえか、ひたすら苦しい現状を訴えるような内容ではなかった……気がする。もう一度読みたくなった。
旅の目的は、アムステルダムの隠れ家やアウシュビッツを訪ねること、そして生存している関係者に話を聞くこと。深く切り込むというかんじではなく、アンネや戦争の気配が残る場所や人の雰囲気そのものを描く、小川洋子の文章がまた上手いんだなぁ。一緒に旅をして、感情をも共有してるかのような錯覚に陥る。
アンネたち一家をかくまったミープさんに話を聞いて、彼女の部屋から出た直後の部分をちょっと引用。

濃密な時間の渦から急に放り出されたようで、しばらくわたしはぼんやりしていた。切刀さんとDさんと一緒に、自分が経験したあのひとときを確認し合いたいのだが、どう言葉で表現したらいいのか分からない状態だった。
「なんだか私、涙が出そうになったわ」
ふとDさんが言った。
「そう? わたしもよ。でも通訳が泣くわけにいかないと思って、我慢したの」
 そうだ。なぜか涙が出そうな気持だった。ただ悲しいからというわけではない。哀惜でもない。感動ーーでは薄っぺらすぎる。今まで触れられたことのない精神の根底が、揺さぶられたような感じなのだ。
命をかけて友人を救おうとした女性がいた。五十年たってその人は老婦人となり、まるで何事もなかったような静かな表情で、小さなアパートの一室のソファーに腰掛けていた。

わたしもミープさんとの会話の部分は、たしかに泣きそうになったのだ。
アウシュビッツへの旅の部分もまた、小川洋子の視点を通して、実物を見たような気分になる。アウシュビッツでは連行されてきたユダヤ人たちはまずすべての持ち物を没収される。そこで収奪されたものは種類に分けて現在展示してあるらしい。見渡す限り靴で埋まった部屋に入ったところをまた引用。

 「どうしてこんなに靴があるんだ」
 と、わたしは誰かに問いただしたい気分だった。
 どの靴もみな、濃い灰色をし、形が崩れ、疲れきったように横たわっている。紐が切れたのがある。大きなブーツがある。海水浴の時持って行くようなサンダルがある。
 わたしは心の中で、無数ではない、無数ではない、と自分に言い聞かせた。一足一足すべての靴が、それぞれの持ち主たちの生きていた証拠を、ここで無言のうちに示している。不可能だと分っていながら、わたしはすべての靴を一つずつ見つめていこうとした。

わたしも誰かに問いただしたい。


いろいろと考えさせられる、だけど何より著者のアンネへの愛情がたっぷりと感じられるエッセイでした。
余談だけど、快く訪問を受け入れてくれたアンネの親友ヨーピーさんのダンナさんの名前はルートさん。『博士の愛した数式』のルートくんを思い出しました。