おやすみ、こわい夢を見ないように(角田光代/新潮社)★★★★

おやすみ、こわい夢を見ないように
冒頭の一文を引用。

あたしですか、あたしはこれから人を殺しにいくんです。背後から聞こえてきた声がそう言った気がして、眠気が吹き飛んだ。

眠気が吹き飛んだのはコチラである。これ、角田光代の新刊だよね? 思わず表紙を見返してしまった。表紙はいつもの角田作品っぽいおだやかな感じ。あ、でもよくよく見るとこのカバー絵も変だ。川に電車とか家が沈んでるし、端っこで人倒れてない? 上から唐突に人降ってきてないか? この作品はいつもの角田作品とちょっと異なるのかもしれない。眠気を吹き飛ばすべく、コーヒーを準備して読み始めた。
ここに収められた7つの短編では、当たり前の日常のなかでふと芽生えた狂気のカケラがするどく丁寧に描かれる。これがどれも怖いんだよね。ふとしたきっかけで、小さな悪意がじわじわと自分を浸食しはじめる。誰にでも起こりえる妄想がやけにリアルで、こわい夢みそうだよ。
どれもいいのだが、一番最後に収められている『私たちの逃亡』が印象深い。主人公のの「私」は小学校のころ通ってたバレエスクールでひとつ年上の理沙と出会う。美しく排他的な理沙に、唯一の友達として選ばれた「私」はそれが嬉しく、ほとんどの時間を二人で過ごすことになる。だけどいつしか二人の会話が変化していることに「私」は気付く。だれが好きかではなく、だれが嫌いか、何が面白いかではなく、何がむかつくか。嫌いな人やものだけを羅列し、ひたすら悪口を言い続ける。「死ねって感じ」それが二人の口癖になっていた。ところが理沙は高校に入学してしばらくすると、家から一歩もでなくなった。美しかった体は徐々に太り始め、口から出る憎しみの言葉はどんどんエキセントリックになっていく。中学卒業を機に、「私」はついに理沙の家に行くことを止めた。
十年後、大人になった「私」は同級生の通夜に出席するため、久しぶりに生まれ育った町に戻り、あのころに思いを馳せる。

理沙から殺人リストを見せられたとき、私は自分と理沙が違うと思おうとした。理沙ほどの強い憎しみをわたしは持っていない、死ねって感じというつぶやきの重さが違う、だからわからない、理沙はわからない。そう思おうとした。そうじゃない、理沙が特別なわけじゃない。彼女が抱いた憎しみだって、私が日常でふと抱くのと同じ、ささやかな怒りだったはずだ。(中略)あの日十五歳の私が逃げたのは、理沙からではなく、自分自身からではなかったか。私がおそれたのは、理沙ではなくて、私の内にもある憎しみの種ーともすると自分の体より大きく増殖してしまう何ものかだったのではないか。

肥大する憎しみは、自分自身を壊してしまう。それを知っているからこそ、それに目を向けないようにする。忘れようとする。なかったことにする。そうしていかないと、生きるのは難しい。
角田光代の上手さが際立つ、印象的な一冊でした。