博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF)(サイモン・ウィンチェスター/鈴木主税・訳/ハヤカワ文庫)★★★★★

博士と狂人―世界最高の辞書OEDの誕生秘話 (ハヤカワ文庫NF)
二日続けてノンフィクションとは、我ながらめずらしい。昨日の五つ星ホテル暴露本はけらけら笑ってあー楽しかった!ってかんじだったけど、こちらはやりきれない思いがじわじわと心の中に広がっていくような物語だった。
購入のきっかけは「豊崎由美氏も絶賛!!」という帯の文句かな。


41万語以上の収録語数を誇る世界最大・最高の辞書『オックスフォード英語大辞典』(OED)。それまでに登場したすべての言葉、その意味はもちろん、語源から用例まで。ひとつの言語のすべてが詰め込まれたその書の、活字の全長は178マイル、印刷された文字や数字は何と2億個以上ー。その偉大な辞書の初版作成に深く関わった二人の奇妙な天才がいた。
たぐいまれなる才能と情熱によって、独学で言語学会の第一人者まで登り詰めたマレー博士。そして軍医として参加した南北戦争以降、精神に異常をきたし、ついには錯乱状態の中で殺人を犯してたため精神病院(警察病院)に収容されているマイナー博士。まったく異なるバックグラウンドを持ちながらも、なぜかよく似た二人は、OED編集作業を通じて知り合い、交流を深めていく。


やはりスポットライトはマイナー博士に向けられる。世界初の偉大な辞書に多大なる貢献をした男、日中は紳士然としていながら夜になれば根拠なき恐怖におびえパニックを起こす男、そして罪なき他人を射殺した男。なぜ彼は狂い、生涯その苦しみを背負わなければならなかったのか。
彼は自分を裁くことをやめられない。だから恐怖からも逃れられない。今なら治療法は多々あるのかもしれないが、彼は何の治療を受けることもなく、ただひたすら警察病院の中でその人生のほとんどを費やした。そんなマイナー博士にとっての唯一の光であったのが「OED」の編集作業に関わることだった。長らく忘れていた学問へ没頭する幸せと、社会の役に立っているという小さな満足感は、一瞬でも苦しみから救い上げてくれる希望だった。
皮肉なことにマイナー博士がそんな状態だったからこそ、常人にはとてもなし得ないほどのスピードと正確さで次々と語句のカードを作成することができた。そして「QED」の編集作業は一気にパワーアップする。
でも言葉を拾い上げる作業の魅力も、マレー博士との交流も、結局は彼の苦しみを救うことは出来なかったわけだが…。


偉大な辞書の陰に、悲しいドラマがある。恐怖から逃れられなかったマイナー博士、友人を救うことが出来なかったマレー博士、狂人に殺された貧しい労働者と、残されたその家族。誰が悪かったのか、時代のせいなのか、本当にこんな終わり方しかなかったのかと、読み終わってなお、やり切れなさがあふれる。残ったのは「QED」の権威だけで、でもそれだけでも残ってくれて良かったと思う。


構成も巧みで、スリリング。ものすごく、心に残るノンフィクション作品でした。