密やかな結晶 (講談社文庫)(小川洋子/講談社文庫)

密やかな結晶 (講談社文庫)
博士の愛した数式』までこの人を知らなかったことが悔やまれるなあ。この作品も1994年のものだ。もっと早く読みたかった。まあその分これから読むことが出来る楽しみがあるけれども。
舞台は世界と遮断された一つの島。その島ではいろんなものが予告なく消滅していく。たとえばカレンダー、たとえばフェリー、たとえばラムネ。朝起きたときにそれらが消滅したことを島の人々は気づき、それらを燃やす。たとえ燃やさなくても消滅したそれらの使い方、必要性、それらにまつわる思い出が失われてしまっているのである。つまりはその物に関するすべての記憶が失われていくのである。だからその必要性も存在も忘れ、その記憶の空洞を受け入れながら人々は暮らしていく。しかし失わない人もいる。その記憶を失わない人々は島の中では少数派だが、「消滅したはずの記憶」を持っている人間だと判断されれば秘密警察に捕われ殺されてしまう。そのため、記憶をなくした人として演じるか、外に出ないようにかくまわれて生きるのだ。
主人公の「わたし」は小説家で、母親は記憶を失わない人間であったために秘密警察に連れ去られ、鳥類学者であった父親は死に、そのあと鳥も「消滅」してしまった。「わたし」自身はまわりの人々と同じく「消滅」を受け入れる人間であったために貧しくも普通の日々を送っていたのだが、懇意にしている編集者が記憶を失わない人であることを知り、彼をかくまうことになる―
著者自身が『アンネの日記』に多大な影響を受けたと解説で語られており、それはこの作品でも秘密警察の恐怖という点において非常に感じられる。でもそれ以上に「消滅」というアクシデントは、実はひどく現実的である。たとえば無理矢理一千年を百年に凝縮して生きるはめになったら、形のあるもの、形のないもの、いろんなものを唐突に失ってしまうのではないか。わたしたちの時間はあまりにゆっくり流れていて気づかないし、しかも「何か」が無くなるかわりに違うものを代用してるから「消滅」ではなく「進化」だと捉えているけど、とくに形のないものとしてはわたしたちは「新しく得るもの」より「失うもの」のほうが多いのではないか…と感じた。