彼女のこんだて帖(角田光代)★★★★☆

彼女のこんだて帖

彼女のこんだて帖


なんだろう。角田光代はわたしを泣かせるために存在してるのか。なんて疑いたくもなるわ。そんなに泣かせるような話じゃないんですよ? でもわたしは電車のなかで涙を抑えようと必死で、降りる駅を乗り過ごしてしまっていた。


ちょっと変わった一冊。小説と料理本のコラボ、みたいな。料理にまつわる短編と、その短編で出てきた料理のレシピが交互に載っている。レシピのページを開けば、普通の料理本みたいで本格的だし。でもどちらかといえば比重は小説のほうが重いと思う。<食>にまつわることを絡めた連作短編集。

 おふくろの味、というものを私は信じていない。結婚・出産後も働く女性が増えた現在では、その言葉に苦しめられているおかあさんがずいぶんと増えたのではないかと思う。(中略)
 料理なんて得意な人が作ればいい、と私はずっと思っている。おやじの味でも、おふくろの味でも、ねえさんにいさんの味でもかまわないではないか。だいじなのは、作る、ではなくて、あくまでも、食べる、ということのはずである。(あとがきより)


この本を読んで深く考えてしまった。記憶に残る<食>とは何なのだろう。美味しい店での食事は確実な幸せを提供してくれるが、それ自体が記憶に残るようなことは少ないように思う。
じゃあ家庭の食事が記憶に残っているかというと、そうでもない。毎日当たり前のように、出されたものを食べていただけで。
でも台所での風景は何故かひどく記憶に残っている。米を研ぐ母の背中。レシピのメモがマグネットでとめられた冷蔵庫の扉。年末に昆布巻きの仕込みをする祖母。カレーの味見をさせてくれとねだる子供のころのわたし。


食事そのものじゃなくて、食にまつわるあれこれは、家族そのものなのだと改めて気付く。<食べる>ということは人間にとって必要不可欠で、家族が時間をともにする場でもあって、好き嫌いは別として個人の味のルーツを決める場所でもある。毎日の食事は、徐々に体に刻み込まれる。それを作っていた人と共に食べる人の記憶とともに。

家族になるということは、同じものを食べる、ということなのかな。


夫婦ものでは『ストライキ中のミートボールシチュウ』(ストレスが爆発してストライキ宣言をした妻とあわてて夕食を作る夫)『豚柳川できみに会う』(死別した妻の得意料理をもう一度味わいたくて…)『結婚三十周年のグラタン』(大喧嘩して家を出たものの、糖尿病の気のある夫のための食事を作りたくなって…)、親子ものでは『かぼちゃのなかの金色の時間』(母子家庭で仕事に追われ、息子への負い目のある母親への意外なプレゼント)、兄妹ものでは『ピザという特効薬』(拒食症気味の妹のために…)、恋人ものでは『なけなしの松茸ごはん』(こういう場合、女は強いです)『決心の干物』(こうなると女は強くなります)あたりが、胸にぐぐっときました。
何度でも読み返したい。

私が味わった多くの料理は、単なる食べものではなくて、たまたま私の母であった女性と、たまたま娘であった私との、関係のひとつなんだと思っている。昨日、今日、明日と、手を抜いたり手間をかけたりして作る私の料理も、食事をともにしてきた、あるいは今、これから、ともに食卓を囲む人たちにとって、そういう何かであればいいなと思う。(あとがきより)

本当にそうだと思うし、そうありたいと思う。


ちなみに、レシピは個人的にはそんなに魅力的ではなかったかな。大根おろしのための機械を購入しようか検討している女ですからね、梅干しとかうどんとか干物の作り方が書かれていてもね、なるほどねってかんじでスルーしちゃうわけですよ。でも、たらとほうれん草のグラタンは一度作ってみようかな。あ、あと季節がら松茸ごはんも!